縄文時代後期に伝来したと云われる、お米。伝来された頃は食糧の一つだったお米は、次第に富や権力の象徴となっていきました。
伝来してから、お米は時代時代でどのように人々と関係し、影響を及ぼしてきたのでしょうか。日本の歴史を『米』で読み解いていきます。
縄文時代
米作りが日本に伝わってきたのは今から3000年ほど前の縄文時代後期。中国・朝鮮半島から九州北部に伝わったと考えられています。
資料1:米作りが伝わったルート
米づくりが伝わったルートは
①朝鮮半島経由
②東シナ海を渡るルート
③南西諸島経由
の3つの説がある。現在有力なのは①の朝鮮半島経由の説です。
この頃の人々の暮らしは、狩猟採集中心でした。
イノシシ、シカなどの野生動物を狩ったり、漁をしたり、木の実や山菜などを採ったりして暮らしていました。
伝来から半世紀ほどで、米作りは東海地方にまで広がりました。
一方、気候が温暖で豊かな食糧があった東日本では、労働を伴う農業はなかなか受け入れられませんでした。
しかし、次第に気温が下がり始めた影響で、東日本においても食糧不足が切実な問題となり、稲作が始まったと考えられています。
弥生時代
縄文時代後期〜弥生時代にかけて、米作りは全国各地に広まっていったことがわかっています。
弥生時代の遺跡からは、くわ・すき・石包丁・田げたなどの農具や多くの壺やかめが発掘されています。
用水路を引いた田んぼやさまざまな農具など、現在にも引き継がれている基本技術は、弥生時代に構築されました。
さまざまな農具
くわ
土を掘り起こす道具。
すき
現代のシャベルのような道具で、田おこしや代かきで使われた。
石包丁
稲穂を刈り取るために使われた。
田げた
水田の泥の中に沈まないように履いた。
米作りが全国に広まると同時に、日本各地に広まったものがあります。それは、貧富の差と戦争です。
狩猟採集をしていた縄文時代には、富はたくわえられず、家族や少人数で食べ物を求めながら移動して暮らしていました。
殺されたことが確かな傷のある人骨はほとんど見つかっておらず、集団同士が争うことは少なかったと考えられています。
ところが、弥生時代に米が貯蔵されるようになってからは、富の奪い合いが始まりました。
弥生時代の遺跡からは、銅剣や石剣が刺さった傷ついた人骨が数多く発掘されています。
この頃の集落は環濠集落(かんごうしゅうらく)と呼ばれていて、住居や倉庫は濠(ほり:周囲を掘って水をいれたところ)で囲まれ、敵からの攻撃を防ぐ機能を持っていました。
戦いによって、負けた集団は勝った集団のために労役に服したり、収穫の一部を収めたりするなど、支配関係や貧富の差が生まれました。
古墳時代
3世紀半ば〜6世紀末頃の約300年は古墳時代と呼ばれています。
戦争を繰り返すたびに、ムラは統合されて大きなクニに変わっていき、人々の間には階層が生まれました。大量の米を持つものが鉄を所有するようになり、さらなる富、武力、権力、労力を握る支配者(豪族)となりました。豪族が権力を顕示するために作られたのが古墳です。
3世紀頃の日本にはクニは30ほどあったといわれており、4世紀頃に多くのクニがまとまり誕生したのが大和朝廷です。
古墳を作る技術が大きなため池づくりにも活かされるようになりました。自然の川に頼らずに田んぼに水が引けるようになり、それまで米作りが出来なかった地域でも水田が広がるようになりました。
飛鳥時代・奈良時代・平安時代
都が奈良県におかれた1400年ほどを飛鳥・奈良時代といいます。この時代には天皇中心の本格的な国家運営がなされるようになりました。
その基本となったのは、『律令制(りつりょうせい)』と呼ばれる法による支配、古墳時代まで各地の豪族のものだった土地や人民を国のものとする『公地公民制(こうちこうみんせい)』、戸籍をつくって一人に一定の面積の水田『口分田(くぶんでん)』を与えて耕作させ、死亡すれば国に戻させる『班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)』などです。
人々は6歳から死ぬまで、口分田を耕して収穫した米を税金として納めるほか、特産品の納税、都での労役や兵役につくことが義務付けられていました。
祖(そ)
イネの穂の束をおさめた。
庸(よう)
都で一定の労役に仕えた。米や布でかえることもあった。
調(ちょう)
各地の特産品をおさめた。
雑徭(ぞうよう)
年間60日ほど、道路や水路の補修、開墾などのために働いた。
この時代、鉄の普及が進み農業の生産力はあがりましたが、重い税負担から逃げ出す浮浪者(ふろうにん)が多くいました。
また、人口が増えて口分田がたりなくなったため、新たに用水路を引いて開墾すれば三世代(子・孫・ひ孫)の間は自分の土地として所有できる『三世一身法(さんぜいっしんのほう)』が制定されました。しかし、重い労働の合間を縫うようにせっかく開墾しても「三代限りの財産」…十分な成果はあげられませんでした。
その後、「世代縛り」をなくして開墾地を永久的に所有できる『墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)』が出されました。
人々は公的支配を受けない田『荘園(しょうえん)』を増やしていきましたが、税を免れるために、税徴収する国司(こくし、現代でいうお役人)より身分の高い貴族に土地を寄進して、国に税金を納めるかわりに、寺社や貴族に年貢をおさめて、自分の財産を守るようになりました。
また、力のある貴族・寺社・各地の豪族たちは、鉄製の道具や牛馬を、税負担から逃げ出した浮浪農民などに貸し出して、開墾することもありました。有力な貴族は勢力を増していき、こうして貴族社会を支配したのが藤原氏です。
やがて、都から離れた地方では国の統率が届かず無法地帯化していきました。土地を守るために農民・豪族と国司は武装化して対立が深まりました。このような国司と貴族の乱れで武士が誕生しました。
鎌倉時代・室町時代
貴族にかわって武士が権力を持つようになりました。鎌倉時代には、製鉄技術が進歩し、庶民に鉄が普及するようになり、米の生産量が飛躍的に伸びました。
戦国時代
年貢の量を定めた
豊臣秀吉は、全国の田畑を正確に測量して、農作物の生産高を把握し、年貢の量を定めました。これを『太閤検地(たいこうけんち)』といいます。
土地の生産力は米の収穫量で換算した単位
土地の生産力は米の収穫量で換算した単位『石(ごく)』で表示されました。これを『石高(ごくだか)』といいます。1石は、当時の一人の人間が年間に食べるお米の量1000合に値します。つまり、「100万石」なら、100万の人々を養える米の生産量があるということを意味します。
現在でも、農業で用いられる単位『反(たん)』を定めたのは、太閤検地です。一反は、一石の米が取れる面積を基準として、田んぼの面積で養える人数を把握できるようになっていました。また、米一石を買える金額は一両と定められました。つまり、
田んぼ面積一反=米収穫量一石=一人あたりのお米の年間消費量1000合=貨幣価値一両
なんですね。
このように当時は、米はただの食糧ではなく、「貨幣」そのものでした。米を作ることは、お金を生み出すことでした。
このような米の価値を基本とする経済を『米本位制』といいます。戦国時代は、貨幣の価値が不安定で、米は小判や金銭より信用力が高かったのです。
戦国大名は、戦さで勝利して領地を奪い取るほか、新たに開墾して米の生産量を増やして石高を増やしました。土木技術の発達を活かして、山間部にも水田を拓いて作られたのが棚田です。
江戸時代
江戸時代には、米本位制の経済が確立されました。
度重ねて自然災害や飢饉に見舞われた江戸時代、安定的な食糧供給・食糧対策が欠かせませんでした。金銀による貨幣は食糧の代わりにはなりませんが、米本位制ならば、経済活性化のために米増産に諸藩が取り組むため、理にかなっていました。また、米は長期保存が利いて長距離運搬が可能なため、貨幣の代わりとして用いやすかったのです。しかし、諸藩が米の増産に励み続けた結果、米は供給過剰となり、ついにはインフレとなりました。米の価格が下がり、他のものの物価が高くなったのです。
徳川吉宗は米の価格を上げるために、享保の改革を行って、経済を立て直しました。
時代が下るにつれて、米本位制と貨幣経済は並立し、貨幣経済の比率が増していきました。
豊臣秀吉の太閤検地以来続いた、石高制は明治6年の地租改正まで続きました。これより税金は米から金納となりました。
現在でも日本人には欠かせない食糧であるお米ですが、飢饉に脅かされていた時代には、富や権力の象徴だったり、貨幣の代わりとなったり、各時代で重要な役割を担ってきたのですね。
まとめ
いかがでしたか?以上が縄文時代から江戸時代までのお米の歴史になります!
このように時代によってお米に対する価値や思考は変わってはいるものの、どの時代でも大切に食べられてきたことが想像されます。
しかし近年では、フードロスと言う言葉が飛び交っているように、昔と今では少しお米に対するありがたみが変わりつつあるのかもしれません。
この機会にお米の歴史を知って、改めてありがたみを感じながら、食してみてはいかがでしょうか?